特に何の脈絡もなくCharlotte・CharlotteのCDドラマの話。
CDをお持ちでない方もアプリ内でダイジェスト版が聴けるようになっているので、もし興味が沸いたら一度聞いていただければ幸いです。[劇場]→[ユニット・グループ紹介]→[CDシリーズ]→[ユニット]→[ドラマタブ]→[ドラマ視聴]で再生できます。
全体的におとぎ話のような体裁だったこともあり、当初はエミリーや亜美真美同様「不思議なお話だったねー」くらいの感想しか出て来なかったこの物語。ただその中で異様に印象に残ったのが、劇中劇のラストでシャーロットの言った「お母様の顔は思い出せた?」という台詞です。
あれはどういう意味だったのかが、ずっと気になっていました。
このドラマはおとぎ話的なテンプレート・いわゆる「主人公の女の子と亡くなってしまった優しいお母様と意地悪な継母」という構図をベースにしつつ、「そうは言ってもアイマスは基本的にやさしい世界だから継母にもそれなりの考えがあるいい人なんでしょ?」っていう暗黙の了解が根底にあります。
根底にあるんだけど、何かがおかしい。
わずかな違和感の原因を「お母様の顔は思い出せた?」っていう台詞からたぐっていくと「えっ、何これめっちゃ面白いやん!」となれたんですけど、ちょっと分かりづらいところあるよねってことで、本日もまた大いに語らせていただこうと思います。
大前提としてあの存在の正体は何だったのか?というところから考えてみます。
注目したいのはシャルロットがシャーロットとの会話中にお父様が帰ってくると告げられたシーンです。
フライディからその事実を聞きシャルロットの注意が逸れた瞬間、シャーロットは完全に無視される形になり一言の台詞も無くそのままシーンが切り替わりました。
ここからシャーロットはシャルロットが明確な意思を持って見て(look)いないと認知されない存在で、無意識のうちに見えている(see)存在ではないことが分かり、この特性からかの者がシャルロット自身の中から生まれた存在・イマジナリーフレンドを起源としていると判断できます。
もっと踏み込んで見てみると、シャーロットがシャルロットと同性の”双子”であることもイマジナリーフレンド説を補強します。イマジナリーフレンドには設定付けが必要ですが、友達もおらずごく狭い世界の中で育ってきたシャルロットのネタの引き出しはそう多くありません。
何か元ネタになりそうなものはないかと周囲に目を向けてみると・・・ウェンズディとフライディという実におあつらえ向きの関係性を持った少女たちがいるわけですね。シャルロットがシャーロットの原型を作り上げる過程で彼女たちをモデルにしたであろうことは想像に難くありません。
つまりシャーロットはシャルロットが作り出したイマジナリーフレンドなんです!と言って良いかといいますと・・・たぶん違います。(なんだよ!)
上述のとおり、シャルロットは一言で言ってしまえばかなり世間知らずな子なんですが、対してシャーロットは出会い頭に自らの名前をフランス語読みに変えることを提案するなど知識があり機転も利くうえ、物語終盤ではすずらんの毒のトリックでシャルロットを嵌めてすらいるなど、明らかにシャルロットの意識の枠外で行動しているシーンがあり、純粋にシャルロットの空想から生まれたとは言いがたい言動をしています。
これら事実をまとめ合わせるとシャーロットはシャルロットが生み出したイマジナリーフレンドという器に何者かの思念が入り込んだものだったのではないかと推察できます。まあ”何者か”ってもったいぶっても仕方なく、常識的に考えたら正体はお母様以外無いんですけど。
「それならイマジナリーフレンドの設定はカットして純粋にシャーロット=お母様設定にすれば良かったんでは?」と言いたくなってしまいますが、まあメタ的な都合、クライマックスの展開に関わる部分なんでそこはちょっと置かせてください。
とりあえずシャーロットの人格部分はお母様だと仮定するとすると、ここで新たな疑問が浮かびます。
シャーロットの言葉はお母様が紡いでいた・・・にしては病弱なシャルロットを一人でピクニックに行くようそそのかしたり、上述のとおりすずらんの毒のトリックでシャルロットを嵌めてみたりと、「母親が実の娘にこんなことするだろうか?」と思ってしまうような行為を一度ならず行っていて、ちょっとこの線も怪しく感じられてきてしまいます。
「じゃああれは誰の意思だったんだ?」とここで年単位で考えあぐねました。そしてたどり着いた結論。
お母様はシャルロットが思い出話で語るような慈愛に満ち溢れた優しい人物ではなく、むしろ苛烈な性格の片鱗がそこかしこに覗くような性格だったのではないでしょうか。
この仮定で行くと全てがすんなり説明できる気がするんですよね。
おとぎ話のような雰囲気自体が「お母様はひたすら優しく暖かい方だった」と受け手に無意識に思い込ませるためのミスリードなんです。
この説、よく訓練されたミリシタPほど「あー、またそういう感じのやつね」とすんなり受け入れられるかもしれません。自分もこの考えに至ったとき自分の頭ミリオンの進行を感じました。
話を戻しまして、上述のシャルロットの問題行動について最終的な結果を見てみますと、秘密のピクニックに出掛けたあと手厳しい叱責を受けたシャルロットでしたが、思いがけない行動を目の当たりにした両親は娘の自立心の芽生えと体力面での成長を感じ取り、かねてより考えていた寄宿学校への入学をここで決断したようにも見えます。
すずらんの毒のトリックもどぎついやり方ではありましたが、継母の命を引き換えにしてでも今の生活が続くことを望むのか、それとも変化を受け入れて家を出て行くのか、シャルロット自身に究極の二択を迫ったといえ、一連の出来事を終えネタばらしされたシャルロットは吹っ切れたように寄宿学校へ行くことを受け入れています。
やり方が正しかったのかというと首を90度くらい捻らざるを得ない手段ではあるものの、いずれも長い目で見れば彼女の成長に繋がる結果になっています。娘の幸せを願った末の行動だったとして、そこに愛があったのか無かったのかというと・・・うーん・・・あるんだよなあ・・・。
柔らかい物腰のところどころにエグみが覗くお母様は、娘の生み出した概念に憑依し彼女を導いてゆきます。しかし彼女の最終的な望みは娘が自分との思い出を断ち切って自立することであり、それはすなわち器としてのイマジナリーフレンドと共に自分が消え去ることも意味します。別れの時は近づいていました。
本来イマジナリーフレンドなんてものは環境の変化や時の経過と共に自然にフェードアウトしていくものなんですが、目的地までは常に直進行軍のお母様はそんなまどろっこしい流れを許さず、愛に溢れた最後の容赦ない一手を打ちます。それが消え去り際に「お母様の顔は思い出せた?」と問いかけることでした。
物語中盤にシャルロットは幼い頃に見た実の母の顔が既に思い出せなくなりつつあるとシャーロットに話していました。シャーロットに話したということはシャーロットの中にいる母である存在も”もう娘が自分の顔を思い出せない”と承知しているはずなのに、わざわざ最後の最後で「お母様の顔は思い出せた?」と問いかけたのです。
お母様の性格を察する前の自分はそう思ったし、他の多くの人も恐らくはあれが「本当は私が貴方のお母さんなのよ」という告白の言葉だと思ったでしょう。でも違います。
あれね、シャルロットは実の母親の顔をもう本当に全然覚えてないんですよ。あそこで突然ネタばらし的なことを言われてもハッと気づくことすらできないんです。あそこでシャルロットがシャーロット=お母様だと気づけていたら最後の呼びかけは「お母様!」になるはずで「シャーロット!」にはならないんです。
こうやってはっきり言われてもまだ嘘か本当か分からないんでしょ? あなたが大切に握りしめていたつもりの思い出は、もうとっくに手の中から消えて無くなってしまったんだよと突き放すことで、母は娘に自分が亡くなってからここまでの生活へのピリオドを打たせました。
最後の仕上げに残酷ともいえる現実を突きつけることで、シャルロット自身の手で幕を下ろさせ自らは消えてゆく、ここのバックに”ミラージュ・ミラー”が流れてるのがいいんですよねえ! シャルロットが”だってあなたはプリンセス”だった時代は今ここに終わったのです。
とはいえ、あの場でシャーロットが「お母様の顔は思い出せた?」と問いかけたことについて、シャルロットは完全に混乱しており意図を察せていません。彼女があの問いかけの意味と母の愛を悟るのはきっとまだずっと先、彼女が一人前の大人になったときのことでしょう。でもそれでいいんです。あの問いへの答えとなるもののヒントを探し考えながら生きていく。それが大人になってゆくということなのですから。
劇中劇終了後、亜美真美とエミリーは「不思議なお話だったねー」とふんわりした感想を述べていました。
まだ幼く、愛情のある家庭で育てられたであろう彼女たちには、娘に向かって実の母親が時としてその心身すら害する手段でもって接することがある、そうやって現される愛もある・・・という発想自体ないため、登場人物の言動が理解できないんですね。彼女たちはまだ”だってあなたはプリンセス”ですから。
人は大人になるにつれ、優しさだけでは全ての問題が解決できないことを学んでいきます。
しかしまだもう少しだけ、エミリーには純真無垢なお姫様のままでいてもらいたい。そんな大人目線の優しさと願望が「今のエミリーちゃんはそれでいいのです。急がなくてもいいのです。」とまつりに言わせたのでしょう。
そしてまたこの台詞によって、Pたちもまたさっきまでエミリーの双子役だったまつりが、実際にはずっとお姉さんだったことを思い出します。ここでようやく”夢物語”が、”現実”に戻って終わる。もうひとつの鮮やかな幕切れ。
余韻、いいですよねえ。
まつりの豊かな人間性が、ビターな物語に輝きを添えて終わる佳作ドラマでした。
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